「明治大学グリークラブ」の演奏史を遡り、団を代表する「この一曲!」をあげるとすれば多田武彦作曲 男声合唱組曲「雨」をあげる人は少なくないでしょう。
男声合唱組曲「雨」は、明治大学グリークラブを代表する委嘱作品であるのみならず、日本の合唱音楽の名曲であります。
作曲者の多田先生ご自身の言葉には、組曲「雨」が「つらいことにぶつかった時にも私をなぐさめ、そっと世のためにはたらくこと」をささやく特徴的な作品、とあります。
「つらい時に私をなぐさめ、そっと世のためにはたらくことをささやく。」
「雨」が世代を越えて愛される理由のひとつは、そこにあるのかも知れません。
その曲の誕生にいたる準備は、昭和41年10月から始まった。
その日。9月の総会で次年度キャプテンに選ばれた青柳君と私は、今はなくなった喫茶店「岡」の二階で外山先生のお話を伺っていた。
三年生の私は外山先生と個人的にお話をするのは初めてであったため、かなり緊張していた。従ってその折りの詳しい状況はあまり覚えていないのだが、要するに「来年度の六連の曲は多田武彦氏に作曲を依頼したい」ということであった。
多田武彦氏と言えば、当時すでに男声合唱の神様的な存在であり、その方への委嘱となれば、我々としては異論のあろうはずがない。続いて作曲料や演奏条件のことなど外山先生のお考えを伺ったが詳しいことは覚えていない。
それから一月あまり後、11月末だったか、夕刻6時半に私と青柳君は、当時多田氏が勤務されていた大手町のF銀行職員通用門の前に立っていた。氏へ団として正式に委嘱の以来をするためである。守衛に多田氏との面会の依頼を告げると、程なく廊下の奥に氏の姿が現れた。氏にはその前年「在りし日の歌」の練習指導においで頂き、直接お会いするのはこの時が二度目であるが、もとよりお話することは初めてである。
端正なお姿、物静かな口調、学生の私たちにも丁寧な言葉遣いで接してくださった。しかし作品のことになると熱っぽく手振りを含めて話される姿を今でも覚えている。既に外山先生からお話が行っていたこともあり、曲の構想などもできあがっていた様子であった。
お話によれば、数年前合唱コンクールの課題曲として作った堀口大學の詩による「雨の来る前」を中心に五曲ほどの組曲にしたい、すでに「武蔵野の雨」はできていて、「雨雲の固まりが、次第次第に進んでくるような曲」とおっしゃられた。・・・・このイメージは後に歌うときに常に私の頭の中に浮かんでくる。そのほか、五曲の中の一曲はソロのある曲にしたい、などのお話を伺って緊張のひとときは終わった。
その後、氏からお電話でソリストの声域はどのくらいかとのお尋ねがあり「上のGは一応出ますが、実際にはFis止まりでしょう」とお答えをした。できてきた楽譜を見るとまさにFisで止まっていたが、この折りの判断は間違っていなかったと今でも思う。
楽譜は翌年1月末に私一人で受け取りに出向いた。トレーシングペーパーに鉛筆書きで几帳面に書かれた楽譜であった。「二部書いたので一組はそちらに差し上げます」とのことであったが、ずっしりと重い封筒を持って帰宅するときの緊張感は大変なものであった。翌日から団員に青焼きにしてもらい、数日後原本は私の手に戻った。
この原本は現在私が保管しているわけだが、25年前に我が家を新築したときのドサクサで未だ紛失中である。発見次第、団に寄贈しようと思っている。
第16回六連は昭和42年5月28日に行われた。それに先立つ二日ほど前(正確な日は忘れたが)世田谷区民会館でゲネプロが行われた。学外への初披露の場である。当日、明治は三番目。外山先生は時間に合わせて会場に到着の予定であったが、予定時間になっても現れない。他校の団員はもとより、木下保、前田幸一郎、畑中良輔その他の先生方もおそらく興味津々と待たれていたことだろう。出番を送らせてもらったが、ついに私が振らなければならないこととなった。
結局、ゲネプロとはいえ、公開の場での初演奏は私の指揮で行われることになった。私としては後の定期演奏会とあわせて、練習場以外の重要な場面で二度もタクトを振ることができるという指揮者冥利に浴したのであった。
昭和42年12月9日グリークラブ定期演奏会の後、翌年には早くも他校で演奏されたのをはじめ、楽譜の出版を期に「雨」は瞬く間に全国の合唱団に愛唱され、まさに男声合唱のバイブル的な存在となった。あれから既に35年、このような名曲の誕生の場に居合わせることができた私は、明治大学グリークラブ50年の歴史の中でもっとも幸せな学生指揮者であったろう、と心密かに一人悦に入っている。